八雲の国から末広がり

旧八祐会ブログ

善意の悪

「善行」って、なかなかむずかしい。

良かれと思ってした行いで、相手を傷つけてしまうことはよくある。

 

「正しい行い」が、つねに正しいわけではない。

タイミングや濃度を間違うと、とたんに正しくなくなる。

昨年の震災以来、なにが「正しい」のか、様々なところで迷走を続けている。

立場によっても違う。

アメリカの他国への干渉がよい例だろう。アメリカの正義は、相手にとっては暴挙でしかない。

 

「多数決」が正しいかというと、必ずしもそうではない。

未来は不確かゆえに、多数決によって大きな過ちを犯すことはよくある。

政治がよい例かな。今の日本の政治に限らず、昔の日本でも、転機となる失敗は多い。

世界を見渡しても同じ。どんな暴君でもみな多数決で選ばれた。ヒトラーもブッシュも。

 

善意の悪として、私が最も気をつけているのが「勧誘」だ。

新興宗教やマルチ商法らの「勧誘」と同じことを、自らしないように強く戒めている。たとえその教えや商品がどんなによいものだとしても、あのやり方は私は嫌い。悪意にしかみえない。

「気学」は、私にとっては正しい軌で、今後も追求したい哲学だ。賛同を得られれば励みにもなる。が、だからこそ安易な「勧誘」はしたくないし、声高に正しいとも主張したくない。なかなかむずかしい。

 

善意の悪は、純粋な悪意よりもたちが悪い。「良かれ」という錦の御旗が暴挙を加速させる。特に日本人は多数に流されやすいので気をつけねばならない。

 

では、善意を善行として成立させるにはどうすればよいのだろうか。

気学的にいえば、祐気とりに努めて、尅気をとらないよう気をつけることが基本。だけれどもそれは一般的ではないし、気学を長年している者にも無自覚に悪意をまき散らす者はいる。はてさて、どうしたものか。

 

受ける側が「意思表示」するしかないのかな。それは結構ですとか、嫌だとか、むかつくとか。なにかしらの「NO」のサインを発するしかないのかな。

これまた日本人にとってむずかしい問題だよな。

 

うまいこたえが見つからないが、まあとにかく、ありがた迷惑とならぬように「NO」のサインに気をつけながら、「良かれ」の加減をはかっていきたい。