八雲の国から末広がり

旧八祐会ブログ

好き勝手なことを言える世の中に

前回の記事で、「集団」から「個人」へというまとめで記事を締めました。

個々が、自分の意見を好きに言える環境、それが可能になったというか、いよいよそこまで日本が成熟したというか、とにかく、みんながみんな同じ方向を向かなくても咎められない時代が到来したように思います。

 

社会派ブロガーのちきりんさん。「話し合って決める」という幻想という記事で、

ちきりんはよく「多様性を尊重すること」の重要性を書いています。

と、このように述べている。

 

いまこの日本という国が置かれている状況はとても複雑怪奇です。そして、国民一人ひとりの状況や思考も、非常に多様化しています。

それら一人ひとりを、強制的に同じ方向に向かせることは不可能でしょう。そしてまた、個々がなんとなく空気を読んで同じ方向を向くことも、無理があります。

なので、それぞれ「好き勝手にすればいんじゃね?」っていうことを容認したほうが、お互いに幸せになれるのではないでしょうか。

 

私が以前から感じていた「この国の窮屈さ」は、この好き勝手を容認させない空気感だったのかもしれません。

 

もちろんこの好き勝手は、遵守すべき法律やモラルがあった上でのことです。その中で、もっと多様性を認め合える環境になることが、今後は求められるのでしょう。

 

そうなると、その多様性を認めれる「受け皿」というのも、今までよりも大きくならないと、窮屈さは変わりません。

お釈迦様の手のひらに乗ってる孫悟空が、そこでは手狭となったので世界に飛び出した、といったところでしょうか。西遊記の内容とは違いますが、あのお釈迦様の手に乗ってる孫悟空と、そこから筋斗雲で飛び出す孫悟空の2枚の絵があたまに浮かびます。

 

この多様性を容認する「受け皿」の拡張は、社会としての受け皿でもあるし、個人としての受け皿でもあります。

社会としては、もうすでに受け皿の拡張がだいぶ成されています。日本人は、パスポート1つで世界中どこへでも行けますし、そしてなによりインターネットの発明が大きく貢献しています。

ハードがそろえば、あとはソフト面。これは個々の問題ということですが、じゃあどうすればいいのかというと、それぞれ「強くなれ」ということに尽きます。

「心身の健康」と「頭と心の成熟」。この2つを基本軸としてそれぞれが強くなることに努力すれば、弱者に対する思い遣りは今以上に充実し、ひいては社会が安穏となるでしょう。平たく言うと、それぞれ元気に暮らし、そしてもっともっと賢く、そして優しくなれば、世の中もっとうまくいくんじゃね?といったかんじです。

 

健康面では、日本人は諸外国よりも優れているので、これまで通りの努力を継続すればいいでしょう。ポイントは「賢さ」です。

私たち団塊ジュニアより上の世代では、「女は馬鹿が良い」とされてきました。また男についても、サラリーマンは自分の意見は押し殺して従順となることが良しとされていたでしょう。つまり、日本の社会全体が、自分の頭を使って賢くいることよりも、難しいことは御上にまかせてなにも考えずに流れに乗っていた方がスムーズな時代でした。

でもいまは、その御上が・・なので、個々が賢くならないと生きづらい時代です。

以前に流行した「脳科学」「脳トレ」などのブームは、その流れの一環に思いますし、ツイッターを「バカ発見器」などと揶揄するさまは、まさに馬鹿では生きづらいという証でしょう。

 

だから、「好き勝手なことを言える世の中」というのは、それぞれが賢さと思い遣りがないと成り立ちません。

為政者にとっては馬鹿の方が扱いやすかったのでしょうが、そうはイカのきんた…(ry

まあ、ざまあみやがれ!といったところでしょうか。

 

まだまだ過渡期ではありますが、今後、生きやすくする上での道幅をさらに広げられるよう、「心」の良化をもって賢くいきましょう。

なお、この「賢さ」ですが、たんにインテリぶるということではありませんので、あしからず。多様性を尊重するには、自分自身の中にも多様性(たくさんの自分)が必要です。

時には「馬鹿なふりをする自分」もあれば、「馬鹿馬鹿しいこと」に真剣になる自分もあります。単細胞や短絡的にならずに、多面的に物事をとらえて柔軟な思考をもつことが、本当の意味での賢さ、心の良い賢さにつながるでしょう。

 

ま、平たく言うと、ロリコンよりも熟女ものが流行る時代、ということかな。ちがうか。