八雲の国から末広がり

旧八祐会ブログ

俺様たちの意見

 「信じる」「信じない」のたぐいの言葉、あまり好きではない。

たとえば「あなたは神を信じますか?」というもの。そんな質問には「アホか」の一言で終了。で、結局のところ私の意見はどちらなのでしょう。内緒。

いや、別に隠す必要はないんだけれども、そのあとに「どうして」とか「証明しろ」とか言われるだろうから、それがうざい。べつにそんなの個々の勝手でいいと思う。

神さまがいることもいないことも、誰も証明なんてできないんだから。

信じる者は信じればいいし、信じない者は信じなければいい。

お互いに、相手を説き伏せる必要はない。

 

神さまのことですら白黒はっきりしないんだから、この世の中のものがグレーだらけなのも仕方ない。だから人は迷うし、他人の意見を参考にする。

 

でも、決めるのは「自分自身」しかいない。

自分の人生なんだから、そんなのは当たり前。

 

人の意見は、あくまでも「参考」なだけ。

だからこそ、他人の意思も尊重するべき。

つばを飛ばしながら相手を説き伏せる必要はなく、持論を淡々と述べればいい。

 

反対に、自分の意思で決めずに他人の意思に従おうとする人も多いが、私にはさっぱり分からない。「んなもんテメエで決めろ(考えろ)」と言いたくなる。言わないけど。

原発事故後の食品問題が顕著だが、何ごとにおいても、あとになって「騙された」とか「信じてたのに」とか「裏切られた」とか、そういったことは私は言いたくない。

 

インターネットの普及で情報が入手しやすくなっている。それはありがたい。

でもね、入手できる情報が多かろうが少なかろうが結局決めるのは「自分自身」なのは、昔も今も、そして未来でも変わらないんだよ。

 

嘘か真実かなんて、関係ない。信じるか信じないか、ただそれだけ。

そしてそれは、他人に言われるでも言わされるでもない。

だからか、安直に「信用」の言葉が飛び交うのを嫌うのは。

「トラスト・ミー」だなんて言葉は、私の辞書にはないし、

「トラスト・ユー」と面と向かって言われたら、嘘を話したくなる。

いちいち信じる信じないだの口に出さずに、行動で表わせばいいだけ。

勝手にすればいい。指図も非難もしないから。

 

信じるのは、いつ何時も「自分自身」だけ。

他人の意見を聞き入れる時でも、それは自分自身の意思で決めたこと。

 

だから決して、どんな結果になろうとも、私は後悔はしない。

 

 

・・・と、自分の中にいる「毅然とした俺様」は言っているが、その他の「俺様たち」の意見は、まだ聞いていない。