気学の心得
今日は「気学」についての記事を書きます。普段は気学についての直接的な記事はなるべく控えておりますが、弁天さんのブログ「万四方山♪」のなかで、胸のすくような、けれども耳の痛い記事を拝見しまして、熱いものがこみ上げてまいりました。
なので今回は、こちらに出てくる「占いにはまってるおばちゃん」を例にとりまして、気学の心得について述べたいと思います。
先ずはこちら「占い師」の記事と、こちら「頼」の記事をお読みください。※
ここに出てくるおばちゃんですが、気学にはまる人でこういうタイプの方は、実はとても多いです。気学に限らず、風水をはじめとした「開運」にはまっている人、占い好きな人、ひいては「宗教」にはまっている人も、おそらくこのタイプが大半と思います。
だからでしょうね、一般の方がそれらを敬遠するのは。それは当然と思います。
そして、そういう人をちゃんと指導できずに放置してしまっている現状に、気学を指導する立場としては忸怩たる思いがあります。
いわゆる「心ない人(頭の悪い人)」をつくらぬよう、妻と二人三脚で懸命に指導してきましたが、ちゃんと(厳しく)指導してきたつもりなだけで、実際には何にも改善できていなかったと、昨年はひどく落胆しました。
当会の場合は、妻の死によって図らずもそのことが露呈いたしました。
どうして「心ない人(頭が悪い人)」が増えてしまうのか? 撲滅できないのか?
そのキーワードの1つとして「お金(商売)」があります。
上記リンクでのおばちゃん。おそらくですが裕福な方と思います。そしてお金に執着が強い(なんでも金で解決してきた)方でしょう。こういうタイプの方は、いわゆる「カモ」としては最適です。うまいことやればどんどん貢いでくれますし、同じタイプのカモを連れて来てもくれます。こうしていったんカモスパイラルを形成させたら、商売としては成功です。
もちろん私どものような立場の人間のみんながみんな、お客様を「カモ」として、あくどい事を考えているわけではないと思います。でも、苦言を呈するよりも、調子いい事ばかりを言いたいのは、誰しも思うところです。
そしてこういうタイプのお客様(生徒)は、ちょっとやそっとの苦言では直りません。かといってあまりに厳しく苦言を呈すると、どっかに行っちゃいます(ちやほやしてくれる人のもとに)。
私どもはそれでも構わずに苦言を呈してきましたが、残念ながら状況は変えられませんでした。
江戸時代に入ってからかな、いわゆる「易」や「暦」らを民間に広めた(下ろした)がために、品位の低下を招いたのは。
元来、気学をはじめとした易や暦などといったものは、ちゃんと「学問」として成立しておりました(その当時は気学という言葉はありませんでしたが)。
それが民間に下りて「商売」となったとたんに、現在では「トンデモ系」な扱いとなってしまいました。
トンデモ系と言われてけっこう。一部の有識者にだけ広まれば(理解されれば)いい。
そういう先生も多いと思います。しかしそうすると、やがて「驕り」や「怠慢」が生じ、自分のことをちやほやしてくれる弟子ばかりを率いて、裸の王様と言われるようになります。そうして益々トンデモ系と揶揄されることに。
志を曲げてまで、その道で食っていく必要があるのだろうか?
むずかしい問題です。
いま私は正直、「気学」では食っていけないと諦めております。
そしてそれでもいいやとも思っております。
適当に調子のいいことだけを言って、カモを増やしてまで食っていきたいとは思いませんし、そんな程度の志で気学を広めたいとも思いません。
気学と商売。というよりも「志」と「商売」は、どうにも相性が悪いみたいですね。
でも現在は「経済変革期」です。これは2043年まで続きます。
ゆえに、どうにか志を曲げずとも商売として成立させるようにすることが、気学を研究する者としての務めなのかもしれません。
歴代の先生方の想いと、今現在の、そして未来のお弟子さんたちへの義務。
それら「責任」を背負う身としては、かんたんに投げ出せないことが、辛くもあり、楽しくもあります。
『気学は哲学である』
気学に携わっている者すべてに(初心者もベテランも)、それがどういうことなのかということを、常に問い続けていってもらいたいと思います。
占いにはまっているおばちゃんを、ありがたい反面教師として。
※沖縄を「南」と勘違いする人はけっこういらっしゃいます。でも沖縄を南とするには、対馬などに住んでいないと無理で、日本に在住の大半の人にとって沖縄は「坤(南西)」となります。
それに、「少なくても半年以上、南に住みなさい」というのは、かなりレアなケースです。可能性として、ない話ではないですが、特殊な事情がない限りは、もっと簡単な(無理のない)方法を指南いたします。
ただ、たとえ方位があっていても、このおばちゃんは何も変わらないでしょう。
「祐気採りさえすれば、それだけでハッピーになれる」と勘違いしている人は、どこに行こうが、何を信仰しようが、どうにもなりません。
あらためて申し上げますが、このおばちゃんは決して特殊ではありません。
「何のために」ということを、誰もが今一度、顧みる必要があります。
何のために気学(祐気採り)をしているのか?
ひいては「何のために生きているのか?」ということを
各人が生涯、問い続けていただきたいと思います。
気学は「哲学」です。