危険に対する嗅覚
中国でデモが暴徒化して邦人が襲われる事件が発生しておりますが、韓国を含め、領土問題などでの緊張が高まっていますから、こういうことが起こるのは予想される事態だと思います。
そのようなリスクがあってもなお、お仕事の関係等でどうしても行かねばならぬ人もおられますが、大半の人はこういう場合には渡航を見直すでしょう。
このように、危険に対する嗅覚って、そう特別なことではありません。冷静に考えれば、今わざわざ中国や韓国に行く必要はないっしょって、誰もが思います。
でも、危険と分かっていても「自分は大丈夫」と妙な自信をもって突き進んでしまう人も多いです。そして案の定、痛い目をみるという具合に。
ある映画(サスペンス系)で、主人公が犯人の誘いに乗ってしまいます。その時には「こいつ犯人じゃね?」ってかなり疑っている場面なのですが、断り切れずに犯人の言うがままに家の中に入ってしまいます。で、案の定つるしあげられてしまい、その時に犯人は、
「人は、危険と分かっていても、つい誘いに乗ってしまう。自分が疑惑の念をもっていることを私に隠そうとするあまりに」
みたいなことを言いました。うろ覚えですが、まあこんな感じのセリフを。
これは、怪しげな場面に遭遇した時の心理描写を的確に表しているセリフです。
罠かもと疑いつつも、そこで行ってしまうか、それともやめておくか。まさに究極の選択を迫られている場面なのですが、なぜか当の本人はその「究極さ」に対して鈍感になってしまうという不思議さ。
「自分は大丈夫」という過信はとても危険です。
なので、もし怪しげな場面に遭遇した場合、楽観的に考えるのはお勧めできません。
鈍感になるのも同様です。
心のどこかが黄色信号を発しているならば、迷わず「止まる」ほうを選択すべきです。
そして、とにかくそういう時には「いい人ぶる」のはやめましょう。
たとえそこで相手に嫌われようとも、もと来た道を引き返すべきです。
未知のところに飛び込む勇気は、そういう時に発揮するものではありません。
こういう場合は、たとえ「チキン」と罵られようとも撤退する勇気を尊重するべきです。
「誰々さんが大丈夫だって言ってたから」
これも危険極まりないです。
人って、窮地に立たされると、自分の脳みそがフリーズしてしまう構造なのかもしれません。だから、安易に「誰々さんの話」を受け入れてしまうのでしょう。
でもそういう時でも、脳みそのどこかでは、必ず「疑い」の機能が働いているはずです。
そういう感覚を無視してはいけません。
危険信号を、妙な理屈をこねまわしてねじ伏せてもいけません。
この場合は、左脳偏重のインテリに多いパターンでしょう。官僚なんかはその典型でしょうし、それ以外でも高学歴を誇っている人の言葉って、なぜか「勘」を無視しようとしているようにみえます。
そういう「勘の鈍さ」は、自らのことはもちろん、大切なひとたちをも危険に晒します。
「君子危うきに近寄らず」
招かれざる危険もありますが、多くの場合は自ら渦中に飛び込んでしまうパターンと思います。 なのでくれぐれも、くれぐれも、おっぱいにはご注意ください。