想像と実体験のあまりの乖離(近しい人が亡くなって)
こちらの記事のやしおさんは、最近お父さまを亡くされ、その時のことを書かれたものです。過去にそういった近しい方を亡くした経験のある方にはとても共感できる内容だと思います。が、そうでない方は、記事を読まない方が賢明だと思います。実体験なき方が予習すべきライフハック的なことではありませんので、余計なお節介ではありますがスルー推奨です。
リンク記事の内容、全般にわたって「うん、そうそう」とうなずきながら読んでいた。ここの所メンタルが穏やかだったせいか、慟哭することなく冷静に読んでいた。
ただ、ある一文に少し心をもっていかれた。
これ以上の後悔ってあるんだろうか。そして全的に感謝できるという、これ以上の幸福があるんだろうか。
やっべ、ちいとやられた。
そう、深い悲しみと同時に、最大の幸福も感じているという、なんともおかしな状態。これは経験しないと分からないもの。てか、普通はこんなの分からなくていい。
また本文には、苛立ちの描写もある。それもよくわかる。
私の場合は、この2年間、ずっと小さく怒っている。とても小さく、とても静かに怒ってる。おそらくこの先もずっと、この小さくて青白い怒りの炎は消えることはないだろう。たまーに真っ赤に燃えあがりながら、一生消えずに怒りつづけるのだろうと思ってる。
誰に対して怒っているのか、分からない。神さまに対してなのか、去りゆく者たちに対してなのか、それとも自分の不甲斐なさに対してなのか、はたまたこの世のすべてに対してなのか。分からない。
カネが潤沢にまわれば少しは気晴らしできそう。だがそうすると、これまで鎮めてた怒りのマグマがドカンとぶっとんでしまって極悪非道に大変身する可能性あり。札束でビンタしたり、おっぱいに万札ぶっこんだりなんかしちゃったりして。うふ、それちょっと楽しそう。
これまで40年間生きてきて、気晴らしにパーっとぶっとびたいと思ったことなんか1度もなかった。あんなのしてるのはメンタル激弱の者がするもんだとばかにしていた。けども、今はいつでもぶっとびたい。壊れたい。かろうじて理性がそれを止めている。
傍からは健全にみえるけれど、中身はもうぼろぼろに壊れちゃってる。
そうなっている人って、世の中にたくさんいるんだろうな。
まあ修復は不可能だから、穴だらけの心のままどうにか生きていくしか仕方ない。
上記リンクには書いていなかったが、私の場合、記憶障害も起きている。よく、ショックな出来事があると記憶の一部が失われるみたいな例のあれ。あと、どんどん忘れちゃう系のあれも。亡くなった当初は、楽しいかったことは一切思いだせずに、喧嘩したこと、ひどい仕打ちをしてしまったことなど、懺悔したいことしか思いだせない時期がけっこう続いた。映りの悪いテレビや電波の入りが悪いラジオをバンバンと叩くみたいに、このポンコツな脳みそに喝を入れて記憶をちゃんと再生するべく頭を壁にガンガン打ちつけることも多々あった。でも体罰しても記憶は再生してくれないでした。体罰反対。
彼女はこの世にほんとうに生きていたのだろうか。それを共有する者が次々と去っていっちゃうから、だんだん分からなくなってくる。でも彼女が使ってた物は残ってる。写真も残っている。なので一応は生きていたんだなあ。はちゅねミクとは違うんだろう。
過去のすべてが夢や幻にしか思えない時がよくある。
どうやら頭ん中、壊れちゃってるみたい。
てゆうより、あまりにショックが強すぎるゆえの防御反応なんだろう。まじで人格が崩壊しないようにどうにかこうにか調整しているのだろう。これで正常。人体のふしぎ展。
とりいそぎ、実体験はこんなもんかな。また何か思いだしたり新たなふしぎ発見したら、パート2、パート3と書いていきたい。
こういう記事って、未体験の者にはまったく必要ないが、実体験側に来ちゃった人にとっては、とても有効なものに思う。少なくとも当時の私はこういう実体験系のものを読みあさった。ぶっこわれた自分がこの先どうなるのか知りたかったので。
あ、書き忘れてた。妻が死んで、一年間に20kg以上太った。激やせを期待していたんだが、実際は真逆だった。とほほ。
まあ、激やせしてよけいな心配されるよりは太ってる方が安心してくれるのでいいけども、全然平気じゃないから激太りしてるんだからねっ!