八雲の国から末広がり

旧八祐会ブログ

とあるブロガーさんへの追悼文

舟を編む」を読み終えて涙を拭いながら各ブロガーさんの記事をチェックしていたら、とあるブロガーさんの訃報を知った。残念でしかたない。

8月初めから更新が途絶えていたのは知っていた。すぐにどういう状況になってるか想像がついた。懸命に闘ってらっしゃるんだろうと。だから、また再び書き込んでくれることを待っていた。

残念でしかたないが、でもご本人には、労をねぎらい、お疲れさまでしたと言いたい。

 

ブロガー同士としての交流はなかった。私の方が一方的にロムっていた。あえて☆をつけずに読み続けていた。それは、いずれあの病気と再び闘わざるを得ない可能性が高いことを予感していたから。妻のこともあってあの病気については世間の人よりも詳しい。だから、そうならないよう願いを込めて私のブログに誘い入れないようにしていた。詳しい手前あの病気のことを書いてしまうかもしれないし、遺族として悲嘆し苦しむ想いを何度も書きなぐっていたから、そういった「病」や「死」をイメージさせてしまう言葉を見せたくなかった。義理堅く、とても丁寧に☆をつける人だったから、だから私のブログに招いてはいけない。そう想って交流することなくこっそりブログを拝見してた。

 

とても彩りある文章をつづる人だった。

つねに病気の恐怖と闘っていたであろうが、そんなこと微塵も感じさせず、新たな青春を愉しんでいる様子がとてもよく伝わった。とても面倒見が良くて頼もしい様子や、初々しくて甘酸っぱい様子など、いつもドキドキわくわくしながら読んでいた。

今、その登場していた方々がどんなに悼んでおられることだろうか。痛いほどわかる。

 

残念という言葉は、頑張って病気と闘った人に対して失礼にあたる気がして使いたくない。しかし早すぎる。早すぎるがゆえに、残念という言葉がどうしても浮かんできてしまう。だからせめて悔い少なく納得して旅立ってくれたと願うが、それはこっちの身勝手なエゴなのかもしれない。残念な気持ちを軽くしたいがゆえのエゴなのかも。

だからたとえご本人がまだまだ生きたかったとたくさん悔いていても、その想いから逃げずに受け止めてあげることが、この世にいる者の誠意なのかも。しかしそれを身近で悼んでる人に負担させるのは酷すぎるので、その外野の私らが逃げずに受け止めたい。

 

生きたくても生きられなかった人の想いを受け止めて、

精一杯に生きねば。

 

 

 

一方的に読んでいた立場だから最初は書くことをためらった。でも、ちょうど読み終えた本の一節にこんなことが書いてあったので、勝手ながら追悼文を書きました。合掌

言葉があるからこそ、一番大切なものが俺たちの心のなかに残った。

生命活動が終わっても、肉体が灰となっても。物理的な死を超えてなお、魂は生きつづけることがあるのだと証すもの ─────