八雲の国から末広がり

旧八祐会ブログ

近い死と遠い死

前回記事の追記というか、言い訳というか。

現場を訪れる前、私が想像していたのは、彼の死を悼み、悲嘆にくれるアメリカ人の姿だった。がしかし、そういった光景は見られなかった。唯一、最後の写真の彼だけが終始、神妙な顔つきで各場所をまわっていた。でもそれが悼んでる姿だったのかは分からない。

前回の記事で私はあえて「悼む」雰囲気の記述を避けた。

それは、先ず私にとってケネディ大統領は身近に感じられる存在ではないのが1つ。

これがダイアナ妃だったら話がちがう。1981年の結婚式のテレビ中継ははっきりと憶えているし、その時の記念切手もいまだに持っている。そしてその後、皇太子の不倫等によりゴシップを賑わしたことも、慈善活動に積極的だったことも、よく憶えている。そして、離婚し、新たな幸せを掴もうとしていた矢先の事故(暗殺事件?)。エルトン・ジョンのCandle In The Windは、今聴いても涙があふれる。

ケネディ大統領に関しては、こういった一緒に同じ時を生きた記憶が一切ない。私が生まれるはるか前から故人だし、その功績もよく知らず、唯一知ってるのはあのダラスでの映像のみ。あの映像だけは、小さい時から何度もテレビで観てた。「暗殺」という言葉を覚えたのはあの映像が最初で、アメリカの大統領は必ず暗殺されるものなのだと幼心にはそう刷り込まれた。

そんな私が白々しく追悼の文章を記すことは、偽善臭が強すぎてしたくなかった。

また、あの事件が「謎だらけ」なのも理由の1つ。そう、

「あの事件はまだ終わっていない」

そのことを強く伝えたかった。だからあのような形式の記事となった。来年に新しい映画が公開されるそうだから、それを観たらあらためて感想を述べたい。

 

だいたいさあ、そもそもおれ、日本人だし。ケネディさんの事件に対する感受性は、アメリカの人のそれとは絶対的に異なるものだろう。これが、織田信長や坂本龍馬の事件現場だったらまた思いも違ったのかもしれないが、それでもやはり、悼むよりは謎解きの方に意識がいってしまう気がする。それって、不謹慎なことですかね?

私にとって「死」は、ものすごく近いところにある。だから、この世で生きていくためにはあえて死を遠ざけないと、そっちにもってかれる。ニュースでは毎日毎日人が死んでることを流しているが、その一つひとつ全部に悼んでいたら、私はもうとっくに死んでるだろう。

縁も所縁もない死に対しては、どうしても淡白にならざるを得ない。

でもそれが死者を冒涜していることとは違う。少なくとも私はそんなつもりはない。

 

死から遠いところで生きてる人には伝わらんだろうな。そういう人はどうぞ、キラキラしたところで正論を吐いて生きてください。