八雲の国から末広がり

旧八祐会ブログ

データを鵜呑みにしない

私は、数字が苦手。ゆえに、データを当てにしていない。もっというと疑ってさえいる。

だから、数字の内容よりも「誰が(どんな人間が)言ったか」により重点を置いている。

つまりは、数字よりも「人(人間性)」をみているということ。

 

数字をみずに人をみる。そんなんだから「肩書き」も鵜呑みにはしない。もちろん参考にはするけれども、それはその肩書きに至る経緯から人間性を読み解くだけで、〇〇大卒だからとか、大手企業に勤めているからとか、そんなのでは惑わされない。むしろ、威張れる肩書きの人こそ、慎重にその人の内面を見極める。

肩書きも、データの一種にすぎない。

 

子供の頃に聞いた話。南の島では、数字は「1、2、3、いっぱい」と聞いた。おっぱいではない。おっぱいでもいいや。

話が逸れた。暮らしていくのに必要な数字は「3」までで、あとは「いっぱい」でじゅうぶん。そんな内容だった気がする。その話を聞いて、私は南の島の人をバカにするわけではなく、むしろ楽しそうだとワクワクした。なんか、のびのびしているというか、心が穏やかというか、なんだか分からないけど、とても魅力を感じた。

 

私が数字が苦手なのは、もしかしたらそのせいかもしれない。ある程度の大きな数字は細かく数えず「いっぱいでいんじゃね?」って、どこかで思っていたのかもしれない。

 

日本も、数字を「ひい、ふう、みい」と数えてた時代は、それ以上は「いっぱい」で済んでいたのではと思う。じゃあ、その時代の人はいまの人よりも頭が悪いかというと、決してそんなことはないだろう。

数字では表せない部分を、さまざまな形で補っていたと思う。

 

データは、たしかに参考になるし、説得力がある。なぜなら「数字はうそをつかない」から。でもね、数字はうそをつかなくても「人は、うそをつく」のよ。

それに人は「ミスを犯す」んだよ。

データを公表するのは、数字でなく、人。

そのことをちゃんと前提として頭に叩き込んでおかないと、データに翻弄されてしまう。

 

 

それにしても、いつからデータ至上主義になったんだ?

人間性よりもデータを当てにする世の中は、あぶない気がするよ。

 

つまりは、女性のウエストは「58cm」でなくてもよいということだ。

そして男はみな「ぽっちゃり」が好きなんだ。ソースは俺。