八雲の国から末広がり

旧八祐会ブログ

マニュアルな対応どうし

コンビニやスーパーのレジ、あるいはファミレスの注文の時、私は店員さんの「目をみて」やりとりができない。

 

普段の人との会話では、そんなことはまったくない。普通に相手をみて会話する。本田圭佑ばりのガン見はしないが、いたって普通に会話する。

でもなぜか店員さんとは、どうしても顔を上げて目を合わせる気にならない。

 

町を歩いていても、視線は人にあわせない。厨二病を発症していた時には、道行く人々のお顔をいちいち拝見しては、小さな目をさら細めて歩いていたが、今はまったくの真逆。

その延長線上で、コンビニのレジに行ってる気がする。

 

町中ではそれでいいが、なぜ店員さんに対してもそうなのかな?

ふと考えて、なんとなく原因が分かった気がする。

 

「共感性」という言葉がある。相手の気持ちをくんだり、場の雰囲気にあわせるといったもので、日本人はそれが高い民族といわれている。どうもそれが関連しているのではと気づいた。

というのも、大手チェーン店の店員さんは完璧な「マニュアル」で接客してくる。それに対して私は、店員さんのリズムを崩さぬよう、店員さんのエネルギーをなるべく消耗させないよう、客としての「マニュアル」で対応しているのではと、そう気づいた。

つまりは、お互いに「ロボット」に徹しているということ。ってゆうか、店員さんが完璧なるロボットとなっている様子に、私が勝手に共感してしまっている。そんなかんじ。

 

「人の目をみて話せない」という行為は、一般的にはマイナスなイメージとされている。なのではじめは、自分自身の心に何かマイナス要因があるのかと懸念した。

でも、大手コンビニやスーパーの店員さんは、ものすごくたくさんのお客を捌かなくてはならないので、私のことなんかいちいち気にしてなんかほしくない。ひたすら空気と化して存在を消そうとしている。

つまりは、私なりに気を使っていることが分かった。それに、私自身もそのほうが楽。

 

下町の雰囲気というか、昔ながらのなじみのお店ばかりの中で育っていれば、私もきっとそういう風ではないのだろう。どんな場所でも本田圭佑だったに違いない。でも、いつのまにか商店街は崩壊し、マニュアル至上主義の中で育ってしまった。

だから私自身も、ロボットになった方が買い物しやすくなってしまっている。

そんなんだから、店員さんがぐいぐいと寄ってくるお店では、そそくさと退散してしまうことが多い。

 

この自分自身のロボット化、もっとこじらせてしまうと、いきつく先は「通販」にはまる気がする。ただ、うちの場合は「宅配ボックス」なる制度がなく宅配便の人が直接に運んでくるので、その回数が多くなると「おなじみ化」が強まってしまうから、まだ通販には手を出していない。

 

 

ここまで書いていて、ある重大なことに気づいてしまった。私が店員さんの目を見ない要因は、別のところに機縁しているのでは、と。

 

それは……自分自身がとんでもなく「ケチ」だということ。

 

どうやら昔に、「ご一緒にポテトもいかがですか♡」攻撃に対する防御として、自分の中に組み込まれたディフェンス能力だったのでは、と。

ジェイソン・ボーンのように今はその記憶を失っているが、私はこの資本主義社会を生き残るべく、完璧なるケチマシーンとしての英才教育を施されていたのだった!

じゃじゃーん。

 

 

厨二病が発症したので、今日はこのへんでお開きとします。ありがとうございました。