コミュニケーションについて雑感
「コミュニケーション」は、アメリカなどの移民大国にとっては防御の意味もある。
積極的に声をかけて相手の素性を探り、その返答によって「こいつは大丈夫そうだな」と安心したり、または更に警戒を強めたりする。傍からはフレンドリーみえるその様子の裏ではそういった意味が込められている。
この1ヶ月間アメリカに滞在していたが、どこのお店でもしょっちゅう声をかけられた。事務的なフレーズやら世間話やら、いろんなアプローチで声をかけてくる。
よく「安い賃金で働かされている人は無愛想で、商品もぞんざいにあつかう*1」的なテンプレをみかけるが、それは誤解である。もしそういう扱いを受けたのなら、それはきっとその時がたまたま目が回るほどの忙しさで相手に余裕がなかっただけだろう。賃金の高い安いだけでサービスの質を語るのは適切ではない*2。彼ら彼女らはコミュニケーションの(防御としての)必要性を理解しているから、ブルーカラーだろうがホワイトカラーだろうが老若男女みな、いたってフレンドリーに接してくる。日本の営業スマイルとは意味が違う。
一方、日本は(ほぼ)単一民族の国だから、よそ者に対する防御的なフレンドリーさは必要としない。しかし、日本は国土が狭く、そのうえ人も多い。そうするとどうしても「共食い」が始まる。出る杭を打ち、ライバルを引きずり落として自分が生き残ろうとする。ちょっとのミスが命取りとなるし、成長をし続けないとすぐに蹴落とされる。だから自らの個性を消したりして、より効率的に業務をこなそうとする。そうして自らを「機械化」させてしまうのは、この国では仕方ない成り行きなのだろう。
また単一民族ゆえ「言葉の壁(防御)」がない分、耳にしたくないことも聞こえてしまうし、言葉の裏にある意味も容易に察してしまう。だから諸外国と比べて心の壁を厚くして機械化(マニュアル化)を図りながら生きていかざるを得ないのだろう。コンビニで店員と目を合わせないで買い物するとかは必然の流れである。*3
そこの風土で何世代にもわたって住み培われた「国民性」というものは、なかなか変えられないし、無理に変える必要もない。アメリカ人的な立ち振舞いはアメリカに居てこそ意味があるし、日本でイタリア人になろうとするのも無理がある。海外に住んで居て「だから日本人は…」と吠えても論点がズレるだけ。グローバルスタンダードなんてもんは、最低限のマナーさえおさえておけば十分だろう。
日本では一言もしゃべらずに一日が終わってしまうことなんて珍しくないが、アメリカでそれはありえない。人見知りにとってアメリカは、あちらから話しかけてくれるから楽でもあるし、それはそれで疲れてもくる。今週の週刊少年ジャンプの「ハイキュー!!」にて日向のコミュ力の高さに新しいマネージャーが「なんか直射日光浴び続けた気分…」とぐったりする描写と、アメリカの印象はよく似ている。
コミュニケーション能力を高めたい人にとっては、海外に出かけることはとても有意義に思う。寂しがり屋の人にとっても、日本に居るよりは孤独感が薄らぐ。
「丸一日声を出さない」ってやっぱきついね。