八雲の国から末広がり

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楽をしてください

ビートたけしが震災直後に語った「悲しみの本質と被害の重み」 (NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース

一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。

そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えてるんだから。

大切な人を亡くすって、とても日常的なことなんだと思う。人生がまるっきり変わってしまうほどの大事件なんだが、傍にはそのことは分からないし、本人もそのことを隠そうとする。ほんとうは大声で「辛い」と泣き叫びたくても、それを表に出すことはままならない。だってそんなことしたって誰も助けてはくれないばかりか、変人扱いされてしまうから。だからひたすら自分独りで耐えるしかない。

私の妻は震災の一ヶ月前に亡くなったんだが、その当時、私は、震災で大事な家族を亡くされた人を羨ましいと思う気持ちがあった。世間に向かって堂々と「辛い」と吐露しても許される免罪符みたいなものを持ってる気がしたし、実際にカネやヒトの支援を受けられていいなって思っていた。オレのことも助けてよ…と。

今となっては、一長一短なのがよくわかる。

たけしさんが言う通り、大事な人を亡くすってことはとてもパーソナルなことだから、被災者、被災者遺族として「ひとくくり」にされることは、私が羨ましいと思うこと以上に辛い側面があるんだと思う。

 

3年が経った。テレビ画面には「悲しみを乗り越えて希望に向かって頑張っている人」しか映らない。なんだかバランスが悪い。今だ一歩も前に進めてない人はたくさんいるはず。個人差が相当にあるはずなのに、その差が見当たらない。これが、テレビ局側の意図でそう見えるのならばまだいいが、被災地に暮らす方々がなにかこう、見えない同調圧力に縛られているのだとしたら、とても気の毒に思う。

そもそも、前に進まなければいけないのか?

このことは、事あるごとに考えさせられる。

希望や夢といったことを是とするのは分かるが、その一方で、それを持てない人を非とする「雰囲気」「同調圧力」を感じるのは私の思い過ごしだろうか。よくあるお見舞いの言葉「早く元気になってください」という言葉からもそういった部分を感じるんだが。

 

3年前に強く思った希望がある。それは、死ぬこと。私にとっての希望は死ぬことだった。死こそが唯一の光明だった。その気持ちは、今もほぼ変わらない。ただその当時と今とで違うことは、それを「早く」とは望まなくなった。諦めた。

一応の順番は守りたい気持ちもあるし、自分を必要としてくださる方々に対して精一杯に応えたいという気持ちが強くある。いわゆる責任ってやつ。その責任の数が増えれば道のりは長引き(一般的には理想な形)、早く責任が無くなれば早く望みが叶う、そういうことかな。なんだ、前途洋洋じゃん。

「早く」を諦めると、多少の慾が出てくる。いま研究したいテーマが「楽」について。楽をするって案外に難しくて、特に日本は楽をすることが否定的に言われる。

大切な人を亡くすことが日常なように、この世界にはありとあらゆるところに「苦」がひしめいている。生きるということは、常に苦を伴う。この世そのものが苦。だから「楽」が大事となる。苦を乗り越えるには楽が必要。次々と高さを増す苦のハードルをいかに楽にクリアするかがこの人生ゲームのコツなんだと思う。

 

私が被災者遺族の方々にエールを送るとしたら、それは、

「楽をしてください」

そう言いたい。

元気になってという言葉には「早く」と付けたくないが、

「楽になって」という言葉には、一日も早くそうなって欲しいと願う。