八雲の国から末広がり

旧八祐会ブログ

ミゼラブルなのか?

昨日は結局、一歩も外に出れなかった。身支度を済ませていつでも出れる体制だったけども、いつの間にやら日が暮れて、いつの間にやら眠ってしまった。泣き疲れて寝ちゃったみたい。

 

昨日はハッピーバースデイの「ハッピー」に、妙に突っかかってしまった。

彼女はこの世に生まれて本当にハッピーだったのか?って。

彼女の母親は、彼女を生んだことで死んだ。

父親には捨てられた。

その後も色々あったが、省略。

そして、48歳で、死んだ。

 

彼女の死を嘆く人は多くいた。が、それも今やすっかり風化してしまった。

彼女の誕生日を憶えているのはもう私ひとりだけ。たった2年しか経っていないのに。

それが世の中なんだろう。そして、それで正解なのだろう、きっと。

1月8日は、エルビスプレスリーの誕生日でもある。いまだその日は世界各地でプレスリーの催し物がおこなわれている。もう死んで何十年も経ってるのに、片や2年で風化しているこの落差に憤りすら感じるが、でもプレスリーとて、あと何十年かしたらその存在を知る人はこの世からいなくなるのだから、ま、同じことか。むしろ、とっとと忘れてくれちゃった方が本人は楽かもしれない。あの世にいってまで作り笑顔をするのはしんどいだろうに。

 

生老病死の「生」に対して、昨日はハッピーと言う気になれなかった。

 

誰しも「この世に生きた証を残したい」と思うのだろう。けども、それはあまり期待しない方がいい気がする。妻の生きた証が、命を削ってまでした善行が次々と消え去っていくことに耐え難かったが、もうどうでもいいや、そんなこと。私ひとりが忘れなければそれでいい。妻のことはもう、私ひとりが独占させてもらうことにした。

 

生きた証すら消え去ってしまった妻と、生きていることに価値を見いだせない私。客観的にみて、きっと私らはミゼラブル(非常に不幸)なんだろう。本家「レ・ミゼラブル」の物語は知らない。だからいっちょ観に行ってやろうと思っている。昨日行こうかと思ったが、玄関から出られなかった。またの機会にする。

 

この2年間、ずっと泣いてる。でもなんで泣いてるのかその真意がわからない。

ミゼラブルだから泣いているのか?

彼女は私に出会えて幸せだったと書き残した。

私も彼女に出会えて幸せだった。

幸せが過去形だから泣いているのか?

 

私は幸せを知っていた。でもそれは昔の話。

これからは不幸を学ばされるのか?

まいったな…。