為政者のこころ
いま、映画「ジョーズ2」を観た。小さい頃はものすごく怖かったが、いま観たら、まったく。なんでかなと考えた時、ふと、為政者の心が分かった。
なんでジョーズが怖くなかったのか?
一番の理由は、サメに喰われる人に「思い入れ」がまったくなかったから。
音声が英語で字幕がタイ語だから、キャラそれぞれの関係性がまったく分からず、ただわーきゃーしてガブガブされてるだけ。もちろんもう大人なので、それが作り物だって分かるから、リアルな話じゃないから、何十年も前の映画だから、遊園地のアトラクションにしか見えない。
主要キャラがサメに喰われていたら、また違ったのかもしれない。主人公の奥さんや子供とか。でも喰われるのはモブキャラ。あのジョーズの音楽がいくら鳴っても「あーあ、やられちゃった」ってだけ。チャンバラ映画でエキストラが斬られるのと変わらない。
これまで悪政をしいてきた為政者は、みな、国や国民の未来、ひいては世の中の未来をリアルに感じていなかったのだろう。だから平気で非道なことができる。自分にとって最愛の者はリアルに感じられても、その延長線上に世界が拡がっているってことがリアルに感じられない。
「共感」と「想像」の能力がいちじるしく欠落している。そのくせ忘却力は人一倍強い。都合の悪いことはさっさと忘れられる。まったくお気楽なもんだ。
そんな輩が「権力」をもってしまうのは、まったくもってやっかいだ。
こちらタイの本屋で、「JAPAN」のガイドブックを観た。英語のでなくタイ語の。
そのなかで「広島」の項目に「原爆」についての記述があり、被爆した女性の写真までも掲載している。私は日本人ながら、その女性の写真を初めてみた。日本人として忘却している(させられた?)原爆の悲劇を、この異国の地は忘れないでくれている。
「長崎」の項目は確認しなかった。忘却していた。恥ずかしい。※
リアルで経験してないから、身近に被爆者がいないから、広島にも長崎にも行った記憶がないから、原爆の恐怖を実感できていない。私の忘却を言い訳すれば、そんなところ。
為政者は言い訳を考える。自分の非を正当化するために、実にうまく言い訳する。
そして、「〇〇のため」といって、言葉巧みに自分の都合を推し進める。福祉のために、経済のために、ほにゃららのために、しなければならない、と。
「ほかではみんなやってる」も常套句。数字を示せば納得すると思ってる。ちょっと前に「ステマ」が問題視されたが、そんなのとうの昔から為政者の十八番だった。
今日は「父の日」。日本のお父さんがたは、自分の子供の未来を嘆いているだろう。父親なら当然だ。でも為政者は、自分たちの父親ではない。だから我々の未来がどうなろうがしったこっちゃない。
為政者というひとりの父親は、自分の身内のことしか心配していない。それが現実。
〈追記〉
※ガイドブックを再確認してきた。「長崎」の項目自体なかった。九州は温泉をメインに紹介していた(指宿の砂風呂ほか)。
長崎って、九州でもとりわけ有名な観光地と思ってたが、違うのか?
もしかしたら宗教がらみで載せていないのかも。