トイレの張り紙考
トイレの張り紙で、「いつも綺麗に使っていただいてありがとうございます」ってゆうのがある。私はこの文面にずっと違和感を感じていた。
で、ググってみたところ、この張り紙に関する記事がたくさんあった。皆さん、やっぱ考えることは同じなのね。
なので私は、ターゲットを広げて、少し毒づきます。
いま私のなかで違和感なのが、「お見舞い」「お悔やみ」の文。そう、昨年の震災に関しての。ブログやメルマガの冒頭に必ずいれてる人がいるが、私はあれ、好きになれない。以前に「善意の悪」という記事を書いたが、それを感じてしまう。
毎年3月11日の前後にするなら、私も賛成する。
けれども、それを毎回ってのはいかがなものか。しかも、記事の本文は、(笑)とか入れた日常会話やら商品の売り込みだったりする。そんなのを目の当たりにすると「偽善」の臭いをぷんぷん感じてやまない。
私の妻が亡くなったのは、震災の1か月ほど前。だから余計に強く不快に感じてしまうのかもしれない。
日常会話や、日常のメールのやりとりを考えれば、至極当然だろう。
個人個人のやりとりで、会話やメールの冒頭や終わりに「お悔やみ」の言葉を毎回つけることは誰もしないだろう。
震災に関する話ならまだしも、まったく関係ない話で脈略なく「お悔やみ」いったら相手も「はあ!?」ってなるでしょ。
トイレの話と震災の話を同じくするのはいささか不謹慎かと思います。でも、私にとってはトイレの張り紙以上に「あざとさ」を感じます。
自分の夢の実現には有言実行でもいいでしょう。が、善行に関しては「不言実行」で陰徳を積むようになさってください。
話を「いつもありがとう」の方にもどす。
この違和感って、「初めてなのに“いつも”と言われること」に対する違和感ってことかな。震災のお悔やみほどではないが、やはりこれも「うさんくささ」を感じとってしまう。せっかくの「ありがとう」という素敵な言葉が色あせてみえる。
「ありがとう」って、先に言われると萎えるのかも。あとで言われるなら、たとえそれがマニュアル化した無機質のありがとうでも、まあまあ気分よく帰れる気がする。
だからあれだ、トイレも上手にできたら事後に「ありがとう」って文字やら音声やらが現れるようにすればいいのでは。
ってゆうか、トイレに「ありがとう」はいらない。従業員らが掃除すればいいだけ。それがベスト。姑息な張り紙などせずこまめに掃除する、それが陰徳でしょ。
使う方も、相手のことを思い遣り綺麗に使う。汚したら掃除する。それもまた陰徳。
善行をビジネスに活用するならば、徹底的に「陰徳」で行うことをおすすめします。誰にも善行が気づかれないならば、偽善となることもないでしょうから。